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【私の趣味】 [鳥取県医師会報に掲載された文です。]

♪ 人生ミュージカル 4 ♪

 1998年12月20日#、県民文化会館5周年を記念して公演された、鳥取県企画部・県文化振興財団による、県民による創作ミュージカル「 茜 ~ 飛天 」に出演の機会を得たことから、人生面白いと感じ始めた小生です。 (#:劇団四季劇場《秋》におけるミュージカル「ライオンキング」公演の初日)

 オーディション段階からでは、出演はあり得なかったのですが、たまたま、マラソンに例えれば、折り返し地点で、そう、1年間の半年経過時点で、代役として出演依頼がなかったならば、「わが人生で一度はミュージカルに出てみたい」という夢は、具体性・展望のない夢でしかなかったわけです。中途からの 代役であったがゆえに、中央からプロを招いて決定されている練習日程と、小生のスケジュールがかみ合わない。出演依頼のあった7月、あと5か月という時点で、練習計画の4割程度しか参加できないという状況には、流石に躊躇しましたが、日程を調整し、何とか7割程度の参加までこじつけた次第でした。

 鳥取公演が終ってからの声は、祝儀も含めてのことと思いますが、好評であったことは嬉しく思えました。実際、舞台、照明、音響、そして、演出には、中央のプロ集団が参加しておられ、県民の皆様の予測を越えた舞台、仕上りになっていたのです。一方、出演者は、社会人、高校生や、幼児までも含め、演 劇関係の方々、ダンスを学んでおられる方々、そして、舞台出演が初めてという方々でした。何よりも、裏方の皆様、舞台を設営したり、大道具・小道具を造ったり、衣装を担当したりと、これらもプロのアドバイスもいただかれた要素もあったようですが、大半は県民の皆様のボランティアによった舞台でした。

 こうした準備が続いていた中での参画でしたが、小生がいただいた「ヤツミミ」は、某氏評の「老賢人」であり、男性で最も出演時間が長く、台詞が多 く、歌も主演の茜に続いて多い重要な役であったわけです。振り返って、聴衆にチケットを購入して貰って小生が舞台に立った経験は、1987年のベートーベン第九演奏会で合唱・バスパート参加が初めてでした。以降、ドイツ語で第九合唱を繰り返し歌う機会があり、モーツアルトのレクイエムやアヴェ・ヴェルム・コルプスを歌い、そして、梨花ホール開館記念の年、祝典第九演奏会の折りに、初めて日本語での合唱「鳥取県民歌」と「ふるさと」を歌ったのでした。そし て、今回、二度目の日本語での歌での舞台が「茜~飛天」でした。それも、振付けをし、台詞もあり、ソロも4曲あるという大役だったのです。

 企画を押し進めておられた演出、振付、指揮などの諸先生は、ヤツミミ役の方が仕事の事情から出演不能に陥った重大事に「何とか代役を!」ということであられたでしょう。いわば、経験のない、愛好家としてサークルに所属もしていない素人の小生を選ばねばならなかったことで、大きな冒険でもあったはずです。

 昭和60年(1985年)、鳥取県で「わかとり国体」が開催されましたが、平成14年(2002年)には、文化の「国体」と称せられている「国民文化祭」の鳥取県開催が決定しています。これに向けての意義も含められた、今回の「茜~飛天」公演でしたが、願いは、単発花火で終らず、小学生、中学生などにも体験して貰いながら、出演者も入れ換えながら、ストーリー・舞台演出等も練り、「茜~飛天」が鳥取県に根差したミュージカルとして、育ち続けることにあります。

 「茜~飛天」が好評であり、かつ、ヤツミミも好評であったようで、安堵していますが、内実は、ヤツミミを楽しませていただいたというのが本音です。これを書いている本日は、数年ぶりの豪雪の様相を呈している休日です。2週後の1月24日には、米子市コンベンションセンターでの公演がありますが、この舞台もまた、一層楽しみたくシミュレーションをしているところです。そう、気分は、わが人生・ミュージカル。 

人生ミュージカル][][][][][四方山話][同2

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