top of page

智頭に来てください。ウィーン国立歌劇場へも!

国民健康保険智頭病院小児科 大谷恭一

竹下先生との出会いから 40 年が過ぎました。学 2 の年明け(1975 年)に臨床実習が始まって間もない頃、「症候診断だった黒内障性白痴の研究が進み・・・」「丁寧に所見をとり、積み上げることが大切」云々、授業に出ず、マンドリンを弾いていた日々にあって、熱っぽく話される先生に惹かれた日から。
サラブレッドと言える先生と比べ、医療に無縁の家に生まれ、未熟な小生でしたが、先生との出会いがその後を決めました。学 3 になり、夏休みに教室に入り込み、先生の促しで、自身の染色体を染めたこともありました。当時から、今でも、優秀な人材が脳小に入局する実績の中で、結果的には、周囲も呆れるほどの学力・能力の乏しさで、申し訳ない気持ちは 40 年を経ても変わりません。が、誰かが脳小集団の最後尾を歩むことになるわけですから、それが小生であって良かったとも思うのです。
中病(鳥取県立中央病院)時代には、当時の医局員に対して、小生の実績を評価する発言をされていたようですが、先生から皆がいる中で直接褒め言葉を聞かされたのは、医局カンファレンスで胸 X 線写真を判読する際に、系統だって所見を述べた際、「大谷君のように、胸郭外の軟部組織も見逃さないように」と話されたこと。また、中病での一般小児科研修を終えた3年目の前期に、先生が脳小に導入された末梢神経伝導速度 MCV 測定の方式を簡易化した際、立ち会われた北原先生が、先生に話され、竹下先生の前で実演し、評価された程度。
結果的に、大学医局に在籍して臨床を学んだのは、1 年目の後半に肝炎を発症し、入院・在宅療養を3か月体験したこともあり、実質 1 年程度で、研究実績は皆無。3 年目の下半期は、当時の先輩に準じて、半年間、国立松江病院で重心病棟を担ったのですが、先生から電気生理に係るデータをと指示され、稚拙に取り組みました。4年目は大学に戻り、本課題を研究テーマとする方針も示されました。が、中病での1年間にハイリスク新生児医療を通じて、脳障害の予防を意識していたこともあり、先生の方針を反故にして、大阪に出ました。1980 年度です。同年度後半に、中病の安東医長を補佐する人材が、母教室の小児科医局、脳小に不在とのことで、吉野邦夫先生からの手紙が届きました。
結果的に、1981 年度から中病勤務が始まりました。牧野禧一郎院長から「大谷君、年に2つは論文を書くように」と指示され、拙著を重ねました。一方、竹下先生の厚生省研究班等の仕事を補佐する関係が続きました。かつ、県行政と医師会、大学からなる「鳥取県健康対策協議会」の地域特性や母子保健等に係る仕事も定番になりました。
また、在宅生活をされておられる筋ジストロフィー症などの方・ご家族を支援する療育キャンプなど、フィールド活動も先生に従い、年余を重ねました。キャンプ以外に、筋ジス協会の求めに応じて、県内津々浦々、患者さん宅を一軒ずつ訪問されておられた事実には、頭を垂れる思いでした。高い学識・見識と、一人ひとりの患者さん・ご家族を大切にされ続けた実践力に驚嘆していたのです。ゆえに、キャンプでは、専門医の力量がない小生は道化役(企画・進行・余興や文集等)を担いました。そう、療育キャンプには、脳小から中病に派遣された研修医も毎年参加してくれましたよネ。素晴らしい活躍をしている多くの後輩たちを眩しく、嬉しくみています。
四半世紀を過ぎましたが、平成元年度からは、中病の周産期センターの責任と共に、隣接する鳥取療育園の園長も拝命しました。1975 年度の開設からの 25 年記念の式では、竹下先生に講演をしていただきましたよネ。年2回の特別診察は、やがて北原先生につながりました。後年、北九州に居られた北原先生や広島に居た前岡現園長に、現地に出かけてお願いして、帰鳥が叶ったのは嬉しかったです。
竹下先生の期待を裏切る行動は、中病の初代医療局長を拝命後も・・・。先生は、小生と県行政との関係性もご覧になられてのことと思いますが、そのまま中病での責任を全うすることを期待されました。が、相前後して、智頭病院の常勤小児科医が不在となったことが発端になり、2003 年 11 月に異動し、現在に至っています。管理職として進むのか、小児医療の現場・最前線に出るのか・・・、自身の力量等からは、現在に至る選択は正解だったと自認しています。当時の片山知事の方針であった“現場主義”を大切に、智頭での“小児医療の現場主義”は 13 年目、4 月からは嘱託の立場で、実質変わりなく子どもたちの育ちを支援する日々です。
子どもの育ちと言えば、自身の子が幼い時に、経緯は不詳ですが、奥様に子守をしていだいたことがありました。 ! 奥様と先生の仲睦まじい様子を思い出しました。ドイツ・スウェーデンでの留学からの帰国後、ご自宅に招かれて、お二人の手料理をいただいたこと、料理が整うまでの時間に、当時は貴重だった成人男性に許された映像作品の初視聴機会を得たことなど。福岡に帰られた後も、学会の際に、ご自身のアイデアが盛り込まれた新築のご自宅へ招かれ、長居しました。奥様には、夫婦共々お世話になり続けでした。笑顔と声音は「そんなことないワ」でしょうが・・・。
竹下先生は、地球に同化され、光ともなられた今、智頭にも自在に訪れていただけると確信します。山歩きなど、アウトドアが好きだった竹下先生にとって、四方を山で囲まれた智頭はハイキング・トレッキングコースが多々あります。先生は海も好きでした。自身、還暦記念で始めたカヤックは7季目、今年からはいっしょに山陰海岸ジオパークエリアを漕ぎましょう。湖山池も気楽で良いですよ。孫娘・家族でのサンセット・カヤックは定番で、今季は初のサンライズ・カヤックを竹下先生と共に!
竹下先生はヘルシンキでの国際学会に小生を誘ってくださいました。周遊し「エルミタージュにも行こう」などとも。が、小生に全く実感がなく、結果、実現しませんでした。先生は学生時代に木管楽器を吹いておられたことも奥様から聞いています。西欧旅行、クラシック音楽の研修・成果は、自己評価で、還暦後に開花しつつあります。さぁ、ボチボチ、小生の非医療・自立的研修的活動に同伴してくださいナ。ウィーン国立歌劇場での「Brava!」や、スイスでのハイキングなどに・・・。
竹下先生の旅立ちを祝して、自身にとっては、先生との新たな活動を祈念して、乾杯!とします。

竹下先生と語らいしつつ 風雪の因美線・通勤車内にて 2016 年 2 月 29 日

恩師・竹下研三先生を追悼する同門会発行の記念誌への原稿

bottom of page